池袋の怪

安政の大地震の翌る年の事で、麻布の某藩邸に一種の不思議が起った。 即ち麻布六本木に西国某藩の上屋敷があって、ここに先殿のお部屋様が隠居所として住って居られたが、 幾年来別に変った事もなく、怪しい事もなく、邸内無事に暮していた。

然るにその年の夏のはじめ、一匹の蛙が椽から座敷へ這上って、 右お部屋様の寝間の蚊帳の上にヒラリと飛び上ったので、 取あえず侍女共を呼んでその蛙を取捨てさせた所が、 不思議にもその翌晩も飛び上る、その翌々晩も這上る。 草深い麻布の奥、元より庭も広く、池も深く、木立も草叢も繁茂っているから、 夏季になれば蛇も這出そう、蛙も飛出そう、左のみ怪しむにも及ばぬ事と、 最初は誰も気にも留めずに打過ぎたが、 何分にもその蛙が夜な夜な現われると云うに至っては、少しく怪しまざるを得ない。 しかも日を経るに随って、蛙は一匹に止らず、二匹三匹と数増して、 果は夜も昼も無数の蛙が椽に飛び上り、座敷に這込むという始末に、 一同も是れ尋常事でないと眉を顰め、先ずその蛙の巣窟を攘うに如ずと云うので、 お出入りの植木職を呼あげて、庭の植込を洗かせ、草を苅らせ、 池を浚わせた。で、それが為かあらぬか、 その以来、例の蛙は一匹も姿を見せぬようになったので、 先ず可しと何れも安心したが、何ぞ測らん右の蛙がそもそも不思議の発端で、 それからこの邸内に種々の怪異を見る事となった。ある日の夕ぐれ、 突然にドドンと凄じい音がして、俄に家がグラグラと揺れ出したので、 去年の大地震に魘えている人々は、ソレ地震だと云う大騒ぎ、 ところが又忽ちに鎮って何の音もない。で、それからは毎夕点燈頃になると、 何処よりとも知らず大浪の寄せるようなゴウゴウという響と共に、 さしもに広き邸がグラグラと動く。